ゴフルの家に着くとまず父親のところへ挨拶に行った。日本では瀕死状態の「家長制度」がインドネシアではいまだ健在なのである。強面、遊び人風のゴフルでも家に帰れば真っ先に父親のところへ顔を出すのだ。父親は家から2〜3分のところで粉屋を営んでいた。小さな店の半分は粉の入った白い袋の山で占められており、父親は大きな秤の奥に置かれた机を前にちょこんと座っていた。ゴフルはバリからのお土産を手渡しながら帰省の報告をし、そばに立つ見慣れない男を紹介した。ゴフルはこれまでにも日本人の友人を連れてきたことがあるらしく、父親は大して驚きもせずうなずいていた。私は「突然押しかけて申し訳ない。お世話になります」とゴフルの通訳で挨拶をした。それから家に帰り母親に挨拶をして、それから長兄のチャイラニと次兄のワヒッにも挨拶に行った。
チャイラニは両親の家の裏手に住んでいた。ゴフルの説明が分かりにくかったせいで、何を生業としているのかはっきり理解できなかった。ワヒッは父親の店の近くで雑貨屋を開いていた。4坪くらいの小さな店で、表からは化粧品がよく見えるように並べられ、軒先の上には女性の写真を使った化粧品の宣伝看板が貼りつけてあった。
ひと通り挨拶を済ませたところで、汗を流すためにシャワーを浴びようとゴフルに誘われた。そう言えばお互い一睡もしていなかったし、エアコンのない車のおかげでTシャツもパンツも汗臭かった。連れていかれたのは家の一番奥にある水浴び場だった。コンクリートでできた水槽から手桶で水をすくって頭からかぶるのだ。ゴフルの言うシャワーとは水浴びのことだった。
最初の一杯は身がすくむほど冷たいと感じたが、汗まみれのカラダに気持ちが良かった。水浴びでこんなにさっぱりするとは思わなかった。カラダを拭いて新しい下着に着替え、少し寝ることにした。私はユースフが使っていたという部屋のパイプベッドで寝た。裸電球が一つ真上で揺れていた。
目覚めると窓からの光が赤くなっていた。ごそごそとベッドを抜け出し居間に顔を出すと、母親のアミさんが何か飲むか?のジェスチャーで聞いてきた。「アクア」と答えると、そばにいた娘のアーニにアクアのボトルを持ってこさせた。アミさんもアーニも笑顔がやさしい。私は「テレマカシ」とお礼を言ったあと、「ゴフルは?」と聞いてみた。アーニは笑いながら「まだ起きてこない」と受け取れるジェスチャーをした。
「一晩中運転していたから疲れているんだよ。無理に起こさなくてもいいからね」と、通じないのはわかっていて日本語でそう言った。アーニの表情を見ると何かしらのニュアンスは伝わった気がしないでもなかった。
アクアのボトルを片手に表に出ると、町は夕暮れに包まれていた。4時間くらいは寝たのだろうか、けっこうすっきりしている。水浴びが効いたのかもしれない。通りの向こうの夕焼け空を見ていると、チャイラニの息子のユーヌスとマトスキがやって来て、私を誘った。ついて行くとすぐ近くで結婚式をやっているではないか。通りに面した地域の集会所のようなところでのイスラム形式の結婚式だ。近所の人たちや子供がたくさん集まっていた。急いでカメラを取りに帰った。
極彩色の祭壇が蛍光灯に照らされて夕暮れの町に浮かび上がっていた。私は祭壇の前に並べられたパイプ椅子のひとつに座って、新郎と新婦が現れるのを待った。どういう流れで結婚式が進行しているのか分からないまま、やがて新郎と新婦が祭壇の前に現れた。友人や親戚や近所の人が祭壇の前に集まって一斉にフラッシュがたかれた。私もその人たちの後ろからカメラを構えたが、ストロボのないカメラのため手ぶれ覚悟でシャッターを切った。新郎の誇らしげな表情が印象的だった。新婦は終始目を伏せていた。日本では見ることのできないイスラムの結婚式を目の当たりにして私は少なからず興奮していた。気がつくとゴフルが横に立っていた。夕食ができたと呼びに来たのだ。もう少し結婚式を楽しみたかったが仕方がない、遅れるわけにはいかないのだ。
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