大通りから路地へ入り、路地から路地へとカメラを片手に歩き回る。老婆と出会う。子供たちが寄ってくる。デンパサール裏通りの暮らしは、いかにものどかで、そして温かい空気に満ちていた。
ひとしきりデンパサールをカメラに収めたワタシは、クタまでベモで帰ることにした。大通りまで出てベモを待つ。何台かの緑色のベモをやり過ごしているうちにハタと気がついた。どのベモに乗ればクタへ帰れるのかわからないのだ。取りあえずクタ方面に向かう道を探すことにした。それしか思いつかなかった。行き交う町の人に「クタ?」と聞きながら道の先を指さして、うなずいたらクタへの道なのだと考えた。
運良く最初に声をかけた相手が親切で、もう一本西側の通りだと身振り手振りで教えてくれた。停留所など存在しないから、木陰でベモを待ってそうな人を見つけてそばに立った。ベモを待っているのかと聞きたいところが言葉が通じないから聞けなかった。間違いなくこの人たちはベモを待っているのだと自分自身に言い聞かせたものの、止まってくれないベモを見過ごしながら不安はつのった。ふと見ると少し先に道路の合流地点があった。止まらないベモに業を煮やしたワタシは、合流地点の向こうまで行くことにした。そこの方がベモを掴まえやすいと思ったのだ。太陽はジリジリとアスファルトを焼き上げている。暑すぎる!意識が朦朧としてきた。
やっとのことで合流地点を越えたワタシは、ベモを掴まえることに必死だった。木陰でも照り返しが相当にキツい。すぐに一台の白いベモが止まってくれた。少し大きめのワゴンタイプである。車掌らしき男が降りてきてドアを開けた。乗り込むと客は一人もいなかった。あれっ、と一瞬思ったが、陽射しから逃れることができて、ほっとしながらシートに腰を下ろした。車掌役の男が助手席から振り向いて何かを言ったが分からなかった。クタへ行くかどうかを確かめたくて「クタ?」と聞くと、「オーケー、クタ。テン・サウザンド・ルピア」と返してきた。やっぱりクタ行きなんだ。千ルピアか、ちょっと高いけどしょうがないかと思った。
気がつけばクーラーまで効かせているではないか。最近のベモはここまで良くなっているんだ。
静かに動き始めたベモはすぐに止まった。今度は運転手が振り返って「テン・サウザンド・ルピア、オーケー?」と言った。はい、はい、分かってますよ、千ルピアでしょ。ベモの相場より高いけどけっこうですよ、と心で言い返そうとして気がついた。「ええーっ、1万ルピア!」。思い切りカチンと来た。「アホッ、そんなカネ払えるか!お前ら、日本人をなめるなよ!」と日本語で言ったところで通じないだろうから、「ノーマネー!」と言ってクルマを降りた。過ぎ去るクルマの窓から罵声が飛んできた。
しばらく待っていると、今度は正真正銘のベモがやってきた。エアコンとは無縁の薄汚れた緑色のクルマだから間違いない。元気のいい車掌のにいちゃんが飛び降りてきて「さあ乗れ!」とばかりに手招きした。「クタ?」と聞くと、「そんなことはわかってるよ。観光客はみんなクタへ行くんだ」的な顔をしてうなずいたように見えた。言葉が分からないからはっきりとクタ行きかどうか自信は持てなかった。当たり前のことだがベモには先客が座っていた。「ハロー!」と声をかけて乗り込んだが、何の反応もなかった。
それでも初めてベモに乗れた感動にニコニコしながら開いている席に座った。隣はOL風の女性だ。なかなか美しい。何とかきっかけをつくろうと横目でチラチラと盗み見みする。
覚え立てのインドネシア語で話しかけようとしたものの、知っている単語数が少なすぎて会話にならないことが分かってあきらめた。そうこうしているうちに、彼女はベモを降りた。何人かの人が降り、何人かの人が乗ってきた。やがて見慣れた景色にベモのクタ行きを確信しはじめた頃、車掌が乗車賃を集め出した。500ルピア、まさに現地価格だ。バリの暮らしを体験できていることがうれしかった。見慣れたデューティーフリー・ショップの前を通過、もうじきクタのベモコーナーである。色々あったベモ体験ではあったが、いよいよ終点が近いのだ。
ところがベモはベモコーナーの手前を左に折れるではないか。おや、このベモはどこへ行くんだ。再び不安が首をもたげてきた。クタから遠ざかる前に降りなければ…。ワタシはあせった。「お願いだからクタへ行ってくれー」。そんな心の叫びが届いたのか、ベモは次の角を右に曲がり再びクタ方面に向かった。あ、そうか、ベモコーナー当たりは渋滞が多いから迂回しているのか。
ほっとしながら浮かしかけた腰を下ろし、横に置いていたカメラバッグを膝の上に置き直した。回りを見渡すと、客たちはいっこうに降りる準備をしない。ベモも止まる気配がない。そういう間にも、ベモはいくつかの角を曲がり、見たこともない景色が窓の外を流れた。ああー間違いない、このベモはクタ行きではないのだ。ワタシはベモに乗ったことを後悔し始めていた。
あの白タクに乗っていれば、とっくにホテルに帰り着いているはずだ。1万ルピアと言ったって、日本円にすればたかが600円程度ではないか。これまでもケチって正解だったことがあったか?。このままだとホテルまで相当歩かされるハメになる。どうしたらいいんだ、どうしたら…。そんな思いに取り憑かれていた。
ワタシのうろたえぶりを感じたのか、車掌がこちらに目線を向けた。「あの〜、このベモはどこまでいくんですか?」と聞きたいが言葉が通じない。途方に暮れた表情で、すがりつくような視線を車掌に送ったその時、ベモは止まった。窓の外は見覚えのある町並みだ。フロントガラスのその先にはベモコーナーがあった。ベモを降りる客たちは振り返りながら笑っている。車掌の男にも笑顔があった。ワタシのうろたえぶりが可笑しかったのだろう。ワタシは手のひらにかいた汗をベモのシートに拭い付けながら、それでもベモ初体験が失敗でなかったことに、年甲斐もなく大きな達成感を覚えていた。